2006年6月 9日 (金)

シリーズ生い立ち10・大学時代編(国大)

国大、というのは横浜国立大学の略称です。全国的には、「横国」といわれることが多いようですが、当の学生たち自身は横浜国大を国大、横浜市大を市大、と呼んでいます。

海王丸の体験航海を終了し、すっかり海と船に魅せられたわたしは、医学部志望を変更し、横浜国大の工学部建設学科海洋工学コースを受験することにしました。もとは造船学科といったところで、目的は帆船の設計を学びたい!ということでした。

センター試験、2次試験を無事通過し、晴れて国大生となったわけですが、同級生はみんな5歳から6歳ぐらい年下です。最初は、果たして普通に付き合っていけるだろうか、と若干心配な気持ちもありました。

とはいえ、同じ年の人間だけが大勢集まっている環境というのは学校だけで、社会に出れば異年齢の集団のほうが普通です。幸い、受験時に顔見知りになった子たちもいて、少ない女子同士、すぐに仲良くなることができました。

その彼女たちとは、いまでも何かと交流があり、これまで2回の選挙のときにも横浜から応援に駆けつけてくれました。本当に、いい友人を得ることができてよかったと思っています。

さて、受験時に一応理系の勉強はしたのですが、船の設計のための勉強というのは、流体力学というのが必須で、これは高校時代の数学「微分・積分」を3倍ぐらい高度にした内容でした。たとえば、単に「微分」ではなく、「偏微分」だったり、「積分」ではなく「重積分」だったりして、∫が三つぐらいついているような計算をするわけです。

もともと理系は得意ではなかったので、数式の奔流にさらされているような授業の数々は相当大変だったのですが、一方で面白くもあり、知恵の輪とか、なぞなぞをといているような感覚、といえばいいのでしょうか、最初に見たときには何がなんだかさっぱりわからなかった数式が、解けたときの快感は、なかなか得がたい経験でした。

さすがに、自分で授業料を払って、2度目の大学生活を送るとなると、勉強にもさらに熱が入ります。これまでさっぱり使えなかったパソコンも、必要に迫られ、扱うことができるようになりました。授業でプログラミングなどもあったため、いまでもNPOの会計などでその知識を役立てられています。

そんなわけで、勉強に熱中し、しばらく選挙や政治とは遠ざかっているような感じだったのですが……。(つづく)

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2006年5月10日 (水)

シリーズ生い立ち9・海王丸体験乗船編

市議選が終わった後、しばらくいままでの環境とまったく違うところに行きたいと思い、ちょうど募集していた練習帆船「海王丸」での遠洋航海に参加することにしました。

当時の行き先はハワイ。1ヶ月かけて太平洋を横断する旅でしたが、練習船とあって費用は格安の16万円ほどでした。そのかわり、停泊中は朝6時30分起床。甲板磨きにはじまって、当直やマストのぼり、操帆のためのロープ引きなど、実習を行う訓練生の方たちに混じっての体験訓練の毎日です。体力的には結構厳しいものがありましたが、それでも、その1ヶ月は忘れられない貴重な思い出になっています。

東京を出航してから3日間は船が大きくゆれ、船酔いで起き上がるのもつらい状態でした。とはいえ、もう降りるわけにもいかないし、訓練ですから寝ているわけにもいきません。沖に出てエンジンで走るのをやめ、帆を開いて帆走を始めると、船は傾いてはいるものの、あまり揺れなくなり、それとともに船酔いも収まりました。

太平洋の真ん中の海の色は、「わたしはいままで本当の青をみたことがなかったんだな。」と思うぐらい深く澄んだ青で、傾いている甲板から手を伸ばせば届くのではないかと思うぐらい近くに見えました。夜ともなれば人工の明かりのまったくないところで、数え切れないぐらいの星が360度の視界にあふれ、船の舳先に上がるしぶきは夜光虫で白く光を放っています。

エンジンも動いていないので、聞こえる音といえば船にあたる波の音と、ロープをひく「わっしょい、わっしょい!」という掛け声だけ。これまで生きてきた環境からまったく切り離された、まるで別世界にいるような体験でした。

人間の小ささ、無力さと、自然の大きさ、力強さを実感し、それでいてその大きな自然を人の力だけで乗り切っていこうとする意志と勇気に感動しました。(つづく)

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2006年4月26日 (水)

シリーズ生い立ち8・初めての選挙編

統一地方選は4年ごとの4月にあり、前半が県議選・政令市議選、後半が一般市議選、市長選となっています。市町村合併の影響で、それ以外の時期に行われる選挙が増えましたが、それでも多くの選挙がこの時期に行われます。

当時、新庁舎建設計画の見直しを求めて活動していたねっとわーくMIMIZUでは、庁舎の問題は市の問題であるけれども、問題の根本は政治と市民の距離が離れすぎてしまっていることにあるとして、前半戦の県議選に1人、後半戦に3人の候補者を立てるべく準備をしていました。

その県議選の候補者として白羽の矢が立ったのが、わたしの母、原島美子でした。当時母以外に立候補を予定していたのは4人で、母が出なければ無投票になってしまうということもありました。

署名活動の盛り上がりもあり、メンバーの人たちは2万票とってトップ当選だ!と意気込んでいましたが、結果は8000票余で落選。「市民活動は票にならない」「あれだけ署名してくれた人がいたのに、投票してくれないなんて」と連日熱心にボランティアで参加していただけにメンバーの落胆は相当なものでした。そして、3人立てる予定だった市議選への取り組み自体をやめてしまおう、という話まで出ました。

しかし、わたしからみれば、市庁舎の問題とは直接関係のない県議選で、無名の新人が直前に立候補を決めて8000票も取れるのは、むしろすごいことなんじゃないか、と思えましたし、ましてここまで活動を進めてきて肝心要の市議選に一人も候補者を出さないなんて、あんまりだと思いました。「せめて、一人でもいいから市議に候補を出して、選挙を戦ったほうがいいと思う」との言葉に、結局3人のうちの一人だけに絞って選挙を戦うことになりました。

その選挙のときわたしは23歳でしたが、出納責任者として初めて選挙にどっぷりつかってお手伝いをしたのでした。

市議選の結果は、みごとに当選しました。しかし、上位ではなく、ぎりぎりに近い順位での当選だったため、やはりメンバーの人たちはがっかりしてしまいました。そして、その後に行われた市長選への取り組みについてもいろいろ話し合った結果、すでに建設見直しを掲げる候補者が2名立候補を予定していたため、あらたに仲間を擁立するとなると票が割れ、現職有利になってしまうとして見送ることを決めたのです。

市長選の結果、現市長、清水まさよしさんが当選し、市庁舎の建設計画は見直され、最終的に庁舎の建設費は半分の150億円に圧縮されました。

わたしはいまでも、これは「豪華すぎる市役所はいらない」という太田市民の意思表示の結果だと思っています。これまで政治とは誰かがどこかで勝手に決めてしまうもので、自分には関係ないのだという気持ちがどこかにありましたが、このことは、「市民が動けば政治は変わるのだ」ということを事実としてわたしに経験させてくれました。

もちろん、実際に建設計画の見直しを実行したのは清水市長です。しかし、その背景には、市民の関心の高さと署名運動の盛り上がりがあり、それなしには決して起こりえなかったことだと思います。そして、この体験こそが、わたしが政治の道をめざす、最初のきっかけとなったのでした。(つづく)

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2006年4月13日 (木)

シリーズ生い立ち7・浪人時代編

大学生時代のあとに浪人時代がくるというのも変なものですが・・・。

いよいよ就職活動という時期になって、それまで漠然と考えていたマスコミに就職したいという希望が、本当に自分の望む道なのかどうか、確信がもてなくなってしまいました。

自分自身を振り返ったときに、「わたしはこれができる!」と言えるような、自分の身についた技術がないこと、自分は一生この仕事をしたい、といえるような仕事に出会っていないことに、はたと気づいたのです。

まだまだ自分には知らないこと、学ぶべきことがいっぱいあるのではないかと思い始め、特に理系の勉強をほとんどしていないことがもったいないような気がして、手に職をつけるためにも、医学部に行こう!と思い、勉強をはじめました。

数学は数Iをやっただけ、理科は理科Iをやっただけ、という状況だったので、勉強することは山ほどありました。理系の勉強は難しかったのですが、問題を解くことが楽しくて、結構熱中してやりました。とはいえ、もちろんそう簡単に成果が上がるわけもなく、4年生での受験は不合格。卒業してから本格的に勉強にとりかかりました。

ところが、ここで現在のわたしの活動に大きな影響を与えたことがおこりました。当時、老朽化していた太田市役所を建て替え、300億円かけて新しい庁舎を建設するという計画がもちあがったのです。

そのころはちょうどバブルの終わりぐらいの時期で、東京都庁をはじめ、各地で豪華な庁舎の建設が進められていました。しかし、豪華すぎると批判を浴びた都庁でさえ、1000億円。1000万人の人口で割れば、一人あたりの負担は1万円ぐらいですが、太田の人口はそのときおよそ15万人で、300億円の庁舎は実に人口で割ると一人20万円もの負担です。

家で受験勉強をしていたわたしに、母が「どう思う?」と話し掛けてきたことは、今でも忘れられません。「おかしいと思うなら、なんとかするようにすればいいじゃん。」そう答えたわたしに、母は考え込んでいるようでした。

それからしばらくして、伯父の恩田光悦を代表とする市民団体ねっとわーくMIMIZUによる、新庁舎建設計画見直しを求める署名活動が始まりました。受験勉強中という名目でうちにいたわたしも、その運動のお手伝いをするようになりました。

活動は反響を呼び、署名はどんどん集まりました。わたしの(不確かな)記憶によれば、最終的に集まった署名の数は3万3千を超えていたと思います。メンバーの人たちは、署名を議会に提出しようと当時の市議会議員全員に紹介議員になってくれるようお願いに行ったのですが、結果としてほぼすべての議員に断られ、唯一承諾して紹介議員になってくれたのは、昨年ガンで若くして亡くなった、竹内和代さんだけだったそうです。

紹介議員になってくれる議員さえほとんどいない状況ですから、もちろん、その請願は否決されました。しかし、3万を超える市民が署名し、見直しを求めているにもかかわらず、それを省みない市議会とは、いったいなんなのでしょうか?メンバーは議員を変えなければだめだと4月に予定されていた統一地方選に候補者を擁立することを決めました。(つづく)

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2006年3月 7日 (火)

シリーズ生い立ち6・大学生編(早大)

受験生生活を終え、早稲田大学に入学したのは1990年4月。友人と合格発表を見に行ったその足で、なぜか国会見学に行きました。

衆議院を見学しようとしたら、紹介議員の人がいないとダメだといわれ、参議院なら大丈夫とのことで、参議院本会議を傍聴しました。職業というか、身分を聞かれて、まだ大学生ではないし、そうかといって高校を中退していたので高校生でもないし・・・と答えに窮した覚えがあります。

その日は特別国会の1日目ということで、海部総理大臣(当時)の施政方針演説などがありました。まだ寒い季節で、コートを着ていたのですが、中は暖かかったので、脱ごうとしたら衛視の人に止められ、またびっくり。

そんなスタートでしたが、学生生活は予想に反して勉強よりもサークル活動やアルバイトが中心でした。

大学に入ってから母子家庭となり、奨学金をもらって大学に通っていたこともあり、仕送りはやっと月額6万円。そのうち3万円は家賃だったため、アルバイトをはじめるまではとてもひもじい生活でした。当時編み出した「ごはんの混ぜご飯(※ただの白いご飯とも言う)」や「味噌入り味噌汁(※味噌をお湯で溶いただけ)」などのメニューはいまでも忘れられません。

お昼を買うお金もなくてご飯にふりかけをかけただけのお弁当を持っていったり、サークル棟の地下食堂でご飯と味噌汁だけ頼んで食べたり・・・。

すんでいたところも、当時でさえ女子学生はまず住まないだろうという環境で、4畳半一間。台所はありますが、トイレは共同、お風呂はもちろんなし。でもユニットバスにくらべると銭湯は王様のお風呂みたいで、かえって贅沢をしているような気がしたものです。

当時から政治に関心はありましたが、あくまで勉強する対象としての興味で、自分自身が直接関わるという意識はありませんでした。むしろ、所属していたミュージカルのサークルでますます演劇が好きになり、一時期は真剣に女優になりたいと考えていました。(つづく)

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2006年2月 6日 (月)

シリーズ生い立ち5・受験生編

およそ10ヶ月の留学生活を終えて帰国したのは1988年の6月。それから、1年年下の友人たちに混じって1年生の2学期、3学期を過ごし、3月末で高校を退学しました。1年間の受験生生活の始まりです。

退学した最大の理由は、早く大学に行きたかったからです。そのころ、わたしは大学というのは自分の好きな勉強をできる場所だと考えていて、決められたカリキュラムで決められたことを学ぶのにあまり魅力を感じていませんでした。

受験した年はちょうどセンター試験がはじめて行われた年で、私立大学だけでなく、国公立大学でも文系なら文系の3科目だけ受験すればいい大学が現れたことも影響したかもしれません。国語・英語・社会の3科目で受験する場合、英語は留学生活のおかげでだいぶ向上したし、国語は学校で勉強してもそれほど成績が変わるわけではないので、社会科だけ自力で勉強すればなんとかなるだろうという読みでした。

とはいえ、中退したわけですから、大学を受験するためにはまず受験資格を取らなければなりません。当時は大学入学資格検定試験(大検)というものがあり、これに合格すれば大学を受験する資格が得られました。この試験は年に1度、8月の初めごろに実施され、必修科目が11科目ぐらい、選択科目が9科目ぐらいあったと思うのですが、1年生を修了したことで必修科目のうちほとんどが免除になり、全部受検するよりはだいぶ楽になっていました。

てこずった科目は、家庭科。いまでも忘れることができない練習問題の失敗があります。

Q1:卵は常温で保存できる。 (A1:正しい A2:間違っている)

Q2:野菜炒めは (A1:強火で A2:中火で A3:弱火で) (A4:長時間 A5:短時間)炒める。

この問題に、Q1はA1、Q2はA3とA4を選んでしまったのです(- -;)。(正解は、Q1はA2、Q2はA1とA5です)

実は、わたしの実家では特に寒い時期には買ってきた卵や野菜を冷蔵庫に入れない習慣があり、出しっぱなしの卵を見た記憶があったわたしは、てっきり卵は常温で保存できると思ってしまったのです。そして、よく火の通った野菜が好きだったため、ちゃんと火を通すにはやっぱり弱火で長時間炒めなければ!と。

いいわけをしても、自分でそういった家事をしてなかったことがバレバレですね。とはいえ、練習問題だったので、ちゃんと勉強して本番はクリアしました!

8月の大検受検が無事終了し、夏が終わるころから、本格的に受験生生活に突入しました。といっても、そうとうぐうたらな生活で、そのころ同じ太田東高校の1年生だった妹が自宅に帰ってくる少し前、午後4時ごろにやっと起き出し、ご飯を食べて夕方から夜中ぐらいまで勉強し、その後は本やマンガを読んで息抜きをして明け方眠りにつくといったぐあいだったので、妹は相当うらやましい生活だと考えていたようです。(余談ですが、今、妹は外国の本の翻訳の仕事をしていて、まさに今書いた生活そのものをいまだに継続しています。)

それだけぐうたらしていても、毎日6~7時間は勉強する時間があり、しかも勉強しなければならない科目は少なかったので、考えてみると受験生としてはとてもよい環境だったのかもしれません。

高校を中退し、大検を受検して大学へ入学したというと「えらいわね」とか「がんばったわね」とかほめてもらえることが多いのですが、実のところ普通に高校に行くほうがよっぽど大変だったのではないかと感じています。

しかし、一方では「早く大学に行きたいから」と高校をやめたのに、大学に合格できなかったらなんのためにやめたのかわからなくなってしまう、というプレッシャーや、「あなたは何をしている人ですか?」という質問に答えられない、どんな組織にもまったく属していないという状況をはじめて経験し、無意識のうちに組織に依存していた自分自身に気づくという貴重な体験をすることができました。(つづく)

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2006年1月25日 (水)

シリーズ生い立ち4・留学生編

インターナショナル・フェローシップ(IF)という団体の交換留学プログラムに参加し、高校1年生の9月から翌年の6月まで、アメリカ合衆国サウスダコタ州のウェブスターハイスクールに通いました。

サウスダコタ州はアメリカの中西部に位置し、「大草原の小さな家」の舞台になった広大な田舎です。夏は気温40℃、冬は-40℃という寒暖の差の激しいところで、わたしがホームステイしていたウェブスターは人口わずか2000人の小さな町でした。もちろん、日本人はほとんどいません。当時の語学力は英検2級の筆記試験にようやく通ったくらいで、とても実用に耐えられる状態ではなく、最初の1ヶ月は相当苦労しました。朝から晩まで英語のシャワーを浴びてすごし、夢の中まで必死で英語で話そうとする日々をすごして、ようやく英語に慣れてきたのは渡米して3ヶ月も過ぎたころだったでしょうか。

言葉というコミュニケーションの手段を封じられる状況にあって、逆にいかに多くの部分で言葉以外の手段によって意志を伝え合っているのかということが、とてもよくわかりました。

声に出す言葉だけではなく、頭の中で考えているその中身さえ違う言語で考えているのに、嬉しいとき、楽しいときは笑い、悲しいときは泣く、そういう感情をあらわす表現は、言語が違っても共通なのです。それは、当たり前のことなのですが、とても不思議で奇跡的なことに思えました。

さて、アメリカの高校に通う中で、なるほどと思ったことがありました。それは、“人と違う”ということがここでは当たり前だ、ということです。

見かけ上のことでいっても、髪の色、目の色、肌の色、みんなちがいます。それだけでなく、授業は自分でカリキュラムを組み立て、卒業に必要な単位を何年間かかけてとる仕組みになっているため、人によってある授業を何年次にとるかが異なり、同じ授業をちがう学年の生徒たちが一緒に受講しているのです。

もちろん、この学年の生徒が多い、ということはあるのですが、違う学年の生徒もまじっているし、そもそも飛び級などの制度もあり同じ学年でも年齢が違うのはそれほど珍しいことではありません。そんな中では、それぞれの人が違うことが当然のことで、人と違う自分に緊張し、周りに合わせようと必死に努力するようなことは、まったく必要のないことでした。

このことは、今後の日本の教育のあり方を考える上で大きなヒントになるのではないかと考えています。いまや、大量生産、大量消費、同じ規格のものを効率よく作ることでどんどん経済が成長していった時代は終わり、それぞれの個性を活かした多様なニーズに応えられる少量多品種の時代が到来しています。その社会経済のあり方そのものの転換期に対応するには、教育そのもののやり方も見直さなければならないのだと思うのです。

ほかにも、日本との違いに驚くことはたくさんありました。ビッグバンや進化論をまったくの作り話だと思っていること、今から15年以上前のことですが、すでに食器洗浄器や電気調理器が普通に使われていたこと、14歳から車の免許が取れること・・・。

人間の根本的な部分が変わらないのに、日本で当たり前と思っていたことがまったく当たり前ではない世界に出会ったことは、当然と思うことでも、立ち止まっていろんな方向から考え直してみるという習慣を身につけさせてくれました。

そしてたぶん、この経験が帰国後高校を退学し、大検を経て大学を目指すという選択に、そして他と違うことを恐れず行うというその後の人生に大きな影響を与えたのではないかなと思っています。(以下、次号)

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2006年1月11日 (水)

シリーズ生い立ち3・高校時代編

プロフィールを見てもらえばわかるのですが、高校時代といってもわたしは1年生しか修了していません。在籍期間でいうと2年なのですが、1年の1学期を終了後9月から翌年6月まで米国サウスダコタ州のウェブスター高校に留学していました。帰国後、年齢でいうと1年下の学年に入って2学期、3学期を修了し、その時点で退学。その年の夏に大検(大学入学資格検定)を受験し、翌年大学を受験しました。

実質1年しか通っていない割には愛着のある母校は県立太田東高校です。新設校で、入学当時は5期生でした。太高、太女(太田高校と太田女子高校)に追いつけ、追い越せ、ということで校則なども相当厳しく、靴下の色や髪をしばるゴムの色、スカートの丈まで厳しくチェックされたことをなつかしく思い出します。

中学生の頃からそうだったのですが、校則には相当反発するほうで、先生方にとっては扱いにくい生徒だったかなと思います。高校はアルバイトが禁止だったのですが、我が家が常にお金がない騒ぎをしていたので、一律にアルバイト禁止なのはおかしいと全校生徒から校則見直しの署名を集めて提出したこともありました。

服装の規定についても、自分自身のことなのだから、自分で決められないのはおかしいと思い、同じ校則違反をしても成績やその生徒の性格などによって注意される生徒とそうでない生徒がいることに憤って、その頃長く伸ばしていた髪を生徒指導の先生の目の前でわざと解いて困らせたことはいまでも覚えています。

以前、県議会の傍聴に行ったときにちょうど高校生の服装について質問していた議員の人がいて、まさにわたしが高校生当時だったときに散々言われていた「服装の乱れは心の乱れ」というようなことをいって指導強化を求めていた場面を見ました。今思えば先生方も、そういう外部からのプレッシャーとの板ばさみになっていた部分もあるのかもしれません。

けれど、散々困らせたと思われる退学当時の担任の先生は、わたしが学校をやめるときに暖かく送り出してくれて、期待しているといってくれました。また、わたしが退学するのと同時期に学校をやめて新たに大学に入りなおすという先生がいて、お互いがんばろう、と言ってくれたこともいい思い出になっています。

もうひとつ、高校時代は演劇部に所属していたのですが、入った当初は演劇部がなく、2年生の先輩と一緒に同好会を作り、2年目に部に昇格して高校演劇祭などにも参加しました。学校以外でも以前から近所の仲間たちとやっていた子ども劇団を本格化し、他の高校の生徒や中学生、小学生も参加して社教センターのホールなどを借りて公演しました。

大人のいない劇団ということで、ホールを借りるのにひどく苦労し、散々交渉したのですが、そのことで、この社会は大人がつくっている社会で、子どもだけで活動するのにはとても高いハードルがあるのだと実感したものです。

さて、またまた長くなりましたが、次回は留学時代のことを書いてみたいと思います。

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2006年1月 8日 (日)

シリーズ生い立ち2・中学時代編

 昨日は本当に寒くて、靴下二枚はいても、カイロを二個ポケットに入れていても、鼻も指先も真っ赤になってしまい、しゃべる言葉は口が回らず、文字を書こうとしても手がかじかんでミミズがのたくったような字になってしまうという状況でした。

 そんな状況の外回りから帰ってくると、部屋の中のあたたかさに頭がぼーっとなってしまい、数もかぞえられないし、パソコンも向かったきり時間だけが流れていって、とても記事を書くどころではなく、あとはただひたすら食べて寝るだけになってしまいます。

 とブログを書かなかった言い訳。

 そんなわけなので、今日は先にブログを書いてしまいます。

 中学校は太田市立北中学校に通いました。ちょうど城東中学ができる直前で、妹は1年北中、2年城東中に通ったのですが、わたしは3年間北中でした。分離直前で、1学年11クラスもあるマンモス校時代でした。

 徒歩通学の一番遠いところで、学校までおよそ2キロの距離を毎朝走って通っていました。トレーニングのためではなく、朝少しでも長く寝ていられるように、という理由でしたが(^ ^;、体力をつけるには効果があったようで、マラソン大会ではいつも上位50番ぐらいには入っていました!

 当時、北中は新聞沙汰になったぐらい学校が荒れていて、「いじめ」「校内暴力」などの問題が全国的にも頻繁に新聞にとりあげられていました。そして、わたしはまさにその渦中の人(?)でした。といっても、いじめっ子だったわけじゃありません。いじめられっ子だったんですね。特に、1年生の頃は心理的、精神的な暴力はもちろん、殴るける、ものを壊されるなどまさにいじめの総合商社(!)といいたくなるぐらいいろんないじめを経験しました。

 そんな中でわたしが考えていたことは、今から思えばいじめを助長しかねないような生意気なことでした。

 その頃、いじめが原因で自殺してしまったり、登校拒否になったりという事件が社会問題化していたわけですが、わたしはなぜか、つらいことや苦しいことがあるからといってマイナスの行動をとったら、負けだと考えていました。誰だって、悲しいことや苦しいことは避けて通りたいものです。でも、悲しいことや苦しいことがあることで、学ぶことはたくさんあります。人の痛みや苦しみを理解できるようになったり、嬉しいことや楽しいことの価値をより実感することができたり。選べるものなら避けて通りたい経験をすることができるというのは、逆に言えばそれだけ自分自身にとって得がたい経験で、いつか必ず、それを生かすことができるはずだ、だから、逆に言えばこれはチャンスなんだ、と屁理屈をこねて考えていました。

 悲しいことがあっても、自分は不幸な人間なんだと思わないで、その経験を自分にとってプラスにすることができれば、逆にラッキーな経験ということになります。言うのは簡単でも、実際にそう思うのは簡単だったわけではなく、学校帰りに誰にも見つからないところに入り込んでこっそり泣いて帰るようなことは日常茶飯事でした。でも、その経験は今でもわたしの人生やものの見方、考え方に大きな影響を与えていると思います。

 どんなにつらく苦しいことがあっても、生きている限りはそれを自分の経験として後々生かすことができます。でも、死んでしまったら、もうそれを生かすことはできません。この経験は、子どもを生むという経験と2本柱としてわたしの中で命を大切にしなければという気持ちの根源となっています。

 そしてもうひとつ、わたしが考えていたのは、いったいなぜわたしをいじめる子たちは、そういうことをするのか、ということです。自分や、その子たちに個人的な原因があると考えることは簡単ですが、それだけではないとわたしは思っていました。

 いじめっ子といじめられっ子の間には大きな溝があって、それは超えられないものか、というとそうではありません。昨日までいじめっ子のグループにいた子が一転していじめられっ子になるような状況も、多く見かけました。それは、本当にささいなことが原因なのです。しかも、子どもだけでなく、大人になってみれば大人の間にも、子ども時代ほどあからさまではないにしてもその分陰湿で根の深いいじめがはびこっています。

 いじめられる子にもいじめられやすい要因はあるかもしれませんが、いじめる子にもいじめにつながる心の重荷があるのだ、とわたしは考えていました。今も、その考えは変わっていません。人は、自分が満ち足りて幸福であれば人を攻撃したり傷つけたり不幸にしたりしたいとは思わないものだと思います。自分自身が不幸であるからこそ、その傷を回りに広げていってしまうのだと思います。

 当時は(今でもそうかもしれませんが)、先輩後輩の関係が厳しく、ちょっとしたことで後輩の子が先輩の子から制裁されるようなこともよく聞きました。そして、そういう厳しい先輩の態度につらい思いをしたはずの子たちが、じぶんが先輩の立場にたつと今度は後輩に対して同じことをするのです。

 誰かが、どこかで、その不幸と抑圧の連鎖を止めなければいけない。だから、わたしはわたしをいじめる子たちを決してきらったり憎んだりしない。それをひろげることはしない。そう必死に自分に言い聞かせていました。

 当時は、自分自身が生き抜くために考え出した無理やりの考えだったと思います。でもいまも、その当時の想いが政治に取り組む姿勢に結びついている気がします。学校という閉じた世界の中で、いろんな矛盾やストレスが噴出す、そのひとつの形がいじめであって、根本的な解決のためにはその矛盾を少しずつでも変えていかなければならないのだと思うのです。

 さて、長くなってしまいましたが、次回は高校時代について書いてみたいと思います。お楽しみに!

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2006年1月 2日 (月)

シリーズ生い立ち1・子ども時代編

これまで日々起こったことを中心に書き連ねてきましたが、今回は趣向を変えて自分自身の生い立ちについてちょっと詳しく書き込んでみたいと思います。

政治活動をしていて一番よく投げかけられる質問は、「なんで政治家になろうと思ったの?」です。簡単に言えば、「社会や制度の不具合のために悲しい思いをする人を一人でも減らしたいから」なのですが、そう思うようになった経緯はたぶん自分の性格と、これまで生きてきた生い立ちの中にあると思います。質問した人も、たいていは「何をするために政治家になりたいのか」ということではなく、「政治家になろうと思うにいたった経緯」が知りたいようです。

そこで、わたしの生い立ちについて、少し順を追って書いてみたいと思います。

第二次ベビーブームのはしりとして昭和46年に生まれ、保育園は3年保育でこまどり保育園、小学校は太田市立韮川小学校に通いました。はしかにかかって入学式の次の日から2週間学校を欠席し、登校再開したときには転校生のような気分でした(実際には転校生だったことはないのでわかりませんが)。チャイムが鳴ってみんながいそいで教室に戻るのを見て、なんでみんな走っているのだろうと不思議に思ったことを覚えています。

うちにはいつもお金がなく、しかも母の教育方針は厳しく、服といえば年長のいとこたち(ほとんどは男の子)のおさがり、おやつも買うことはほとんどなく、母の手作りのホットケーキや蒸しパンなどで、小学校に上がる前に妹とテレビのチャンネル争いをしたことがきっかけとなりテレビも一切見せてもらえず、冬でも半そで半ズボンですごすという、今から思えばとっても変わった子ども時代でした。

小学生の話題はテレビかお菓子の話が多く、学校の友人たちの話題にはまったくついていけませんでした。まわりからみると相当変な子どもだったのだと思うのですが、小学校の高学年ぐらいまでは自分が変わっているということにちっとも気づいていませんでした。

また、本を読むのがとっても好きで、そのころ出版されていた児童書や童話はたいてい知っていると思います。読むだけでなく、それを現実にやってみたくて、近所の友人たちと一緒に子どもだけの劇団を結成し、祖父の家の離れに劇場をつくって上演したりしていました。

物語だけではなく、外国の習俗などについて書いてある本を読んで、ハロウィンやイースターなど、その頃はまだ日本にはちっとも根付いていなかったお祭りをやってみたり、野外生活の本を読んで竹細工や木細工をしたり、火の起こし方やテントの張り方を練習したり、木登りをするのはもちろん、あまり高くない枝の上から地面に飛び降りる練習をしたりと、学校以外での生活はとっても充実していて活発な子どもだったと思います。さんざん変わった経験に付き合わされた妹や近所の仲間たちにはいい迷惑だったかも・・・(^ ^;

さて、そんなわたしがどのようにして政治の道に足を踏み入れることになったのか、続きをお楽しみに!

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