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2006年5月14日 (日)

ぐんまふれあいフェスティバル他

連合群馬主催の2006ぐんまふれあいフェスティバルin太田に参加しました。久しぶりに子どもたちと一緒にお出かけです。去年と同じく、今年も子どもたちの要望で、フェイスペインティングに参加。ポップコーンと綿あめを買いました。

前日までの雨もやみ、やや風が強かったものの、良く晴れていいお天気になりました。会場にはたくさんの人たちが参加し、見知った顔もちらほら。

お昼はいつも応援していただいている方からお誘いをいただいて、そば打ちの会に参加。できあがったころに到着し、おいしい手打ちそばをごちそうになりました。

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午後は「九条の会」アピールに賛同する太田市民の会結成総会に参加。こちらもあちこちに顔見知りがいます。記念講演で終戦直後から60年以上にわたり原爆被害者の方たちの診察を続けているという肥田舜太郎先生のお話を伺いました。

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肥田先生は、昭和20年8月6日、広島のまさに原爆の投下された地域で軍医として仕事をしていたのですが、ちょうど夜間の急患を診るためにそこを離れて村へ行っていたときに原爆が落とされたのだそうです。

引き返す途中で、もはや人間とはいえないような状態となったたくさんの人たちに会い、全身やけどでふくれあがって苦しんでいる人たちを見て、動けなくなってしまい、ようやく、ここにこうしていてはいけない、村に戻り、なんとかして医者としての役目を果たせるようにしなければと、ただそれだけのことに思い至るまでに1時間以上かかったそうです。

それから、他の医師とともに診療をはじめましたが、薬も道具もない状況で、手の施しようのない人たちが死んでいくのを見続け、医者であることがほとほといやになったといいます。

体中赤向けになった瀕死の人たちは、なんとか助けてもらいたいと動いている人を見るとじっと見つめてくるので、先生が村に入っていくとたくさんの目がいっせいにこっちをみるのだそうです。その目を見てしまうと、なんとかしなければと思うけれども、なんともできない。だからとにかく目を合わせないようにして通り過ぎるのだけれど、あるとき、その中の一人と目があってしまい、仕方なくそばへ行ったそうです。

その目は本当に必死の表情だったのですが、診察しようにも皮膚の残っているところがなく、聴診器の当てようもないのです。その中で、一か所だけ、ほおに皮膚が残っていて、どういうわけかその部分にそっと触れたそうです。そうしたら、その人の目が、ふっとおだやかな、人間らしい表情をとりもどし、ああ、この人は人間の表情をとりもどしたな、と思った瞬間、がくりと首が落ちてなくなってしまったそうです。

先生は御年89才ということですが、いまでも、そのときのその人の目が忘れられず、夢に出てくることがあるそうです。

そして、3日目ぐらいになると、直接被爆した人たちのうちで、亡くなる人はみな亡くなってしまい、比較的軽症だった人たちだけが残ったのですが、今度はその人たちが、これまで見たことのない症状を呈しはじめました。まず、高熱が出ます。当時の体温計は10分計なのですが、計り始めて30秒もたたないうちに38度をこえてしまうのだそうです。そして、どんなに高熱が出るといっても、普通42度を超えることはないのだそうですが、このときは体温計の目盛りを超えて、42度を超えるような高熱が出るのです。

そして、体中に紫斑が出て、出血します。目じりや、鼻や、口、体中のあちこちから血が出てくるのです。さらに、口がものすごく臭くなる。これは、放射線で白血球がやられてしまったために、ばい菌が繁殖しようとしたときにまったく対抗できず、体が生きながら腐っていく状態なのだそうです。

同時に、髪が抜ける。坊主頭にするときに髪をそる場合は、根本の部分が残っているので、そったあとは青っぽく見えますが、この場合は根本からすべてごっそり抜けてしまうので、抜けた後の肌は白いのだそうです。もうあと何時間も生きていられないであろう状況にある人が、その抜けた髪を見て、「先生、わたしの髪が……」といって泣くのだそうです。

こういう症状が出てくると、そのあと数時間のうちに、みんな亡くなるそうです。たくさんの人たちが、そうやって亡くなりました。

原爆の投下から、一週間ぐらいたつとさらに別のことがおこったそうです。これまでは、直接被爆した人たちの間でそういう症状が出ていたのですが、後から救助に入ったり、人を探して広島に入った人たちの間でまったく同じ症状が出てきたのだそうです。

新婚で、出産のために里帰りをしていて広島を離れていたまだ24歳の女性が、生まれたばかりの子どもをおいて、県庁に勤めているご主人を探すため、焼け野原となった広島へやってきました。あちこち訪ね歩き、ここにはいない、生きている人はみんな村にいるから村に行ってごらんといわれて、先生のいた村へやってきたそうです。

本当に幸運なことに、その人はそこでご主人とめぐり合い、多くの人に良かったねと祝福されたのですが、その矢先、具合が悪くなり、最初は風邪だと先生も思っていたのですが、いつまでたっても熱が下がらない。どんどん熱が上がり、顔色が悪くなり、そのうちに紫斑が出て、髪が抜け、結局しばらく後になくなってしまいました。

さらに後になると、いろいろ検査しても異常が見つからないのに、少し体を動かすとすぐ疲れてしまって横にならなければならなくなってしまう、という症状が見られるようになり、今でも、様々な形で原爆の後遺症は続いているそうです。

こんな恐ろしいことを、二度と繰り返さないために、ここにいるすべての人たちが、全力を注がなければならない。自分はもう世の中がどうなってもたいして違いはないけれど、子どもたち孫たち、ひ孫たちのために、これからも話し続けていきたい、とおっしゃった、その言葉の力強さに、深く感銘を受けました。

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